義父の急逝と終活のすゝめ

家族あれこれ

こんにちは、しゃんはいさくらです。

前回、前々回と義父の入院について書きましたが、治療の甲斐無く、先日義父が永眠しました。

発症から逝去までたったの1ヶ月。今もまだ入院しているような気がして、亡くなったことが信じられません。

私は子どもたちと家にいるように言われていて、最期を看取ることはできませんでしたが、眠るように静かに息を引き取ったそうです。

今日は哀悼の意を込めて、我が家に起こった不思議な出来事と、義父が残してくれた教えについて考えてみたいと思います。

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今思えばとても不思議。田舎への里帰り

義父には生みの母(既に他界)と育ての母がいて、育ての母は現在安徽省の農村に住んでいます。

あまりにも田舎過ぎて出かけるところがどこにもないので、義父は行ってもつまらないと言ってあまり行こうとしませんでした。

先方は毎年のように遊びにおいでと言ってくれているのに、行くのは3年に一度あるかないか。

先般の春節もまた電話をもらって、またいつものように断るのかと思っていたら、今年は何故か即答で「行く」と返事をし、義両親2人で安徽省に出かけたのでした。

当時は不思議に思わず、自分から行くって言うなんて珍しいねと義母と笑ってたんですが、まさかあれが義父とおばあちゃんの最後の面会になろうとは。

何かの虫の知らせだったのでしょうか?

 

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伯父に起こった異変

義父は入院はしたものの、私たちはずっと数週間すれば回復するものだと思っていたので、普段あまり連絡を取らない親戚たちには入院の件を伝えていませんでした。

その後、いよいよ心の準備が必要になった時に伯父(義父のいとこの夫にあたる)に連絡をとったところ、どうりで最近自分の体調が良くないわけだと言うのです。そして義父が最期に息を引き取ったのと同じ頃、伯父は胸が苦しくてふとんでうずくまっていたんだそうです。

この伯父、直接の血縁関係にはないのにこれまでも義父とは不思議な因縁があり、義父が食道閉鎖で胃を切除した数ヶ月後に彼は胃がんになり、10年前に義父が脳出血した数ヶ月後に彼も脳出血で入院したりと、なぜか同じ場所に病気が見つかるんです。

最近体調が芳しくない伯父。今後何もないと良いのですが。。。

 

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ああしていれば、こうしていれば・・・

義父は脳出血からの回復後、これまでになかったくらいふくよかになり、一見健康を取り戻したかに見えましたが、実はそうではなかったんだというのが後になって判りました。

まだ自宅から点滴通院していた頃、肩を上げ下げさせながらゼイゼイ呼吸していた時は既に救急車で運ばなければならないくらいの重症だったのに、私たちはもちろん、義父自身も重症だったことを判っていませんでした。

もし判っていたらきっと義母に苦しいとか、歩けないとかそう伝えたはずなのに、義父は「大丈夫だ」と答え、病院に着いてからも自力で階段を上って診察室に向かっていました。

10年前の脳出血で、私たちが思っていた以上に脳が傷ついていたようです。

普段からおかしな発言をしたり、雰囲気や空気が読めてない行動を取ったりすることはあったのですが、自分の身体の異変に気づけないほどとは思っていませんでした。

義父は一般病棟での入院中も、ICUに入る時も、自分が重篤な状態だったことを理解していなかったんじゃないかというのが今の私たちの見解です。脳の酸素不足でせん妄状態にはあったと思いますが、それにしても反応が過激でした。

ICUに入ることが決まった時に、看護師が手を縛ろうとしたんですが、ものすごい力で抵抗して大変だったといいます。自分は何ともないのにどうして身体を拘束されるのか。事態が判断できていなかった義父からしてみれば、抵抗するのは当然の行動だったのでしょう。

今思えば、私たちはそれぞれが何らかの異変を感じていたのに、大丈夫だろうとの思いから対応が遅れがちになり、それが命を縮めることに繋がってしまったのではないかと思うと、申し訳ない気持ちと残念な気持ちが抑えられません。

初期に入院していれば・・・

呼吸の変化にもっと敏感になっていたら・・・

あの時せめて車で送って行ってあげれば・・・ etc

ICUに入った後は鎮静剤を打たれて、その後更に病状が悪化してしまったので、結局話したいことを話す間もなく、会わせたい人への連絡も間に合わず、義母は悔やんでも悔やみきれないのではないかと思います。

 

若いうちから準備。エンディングノートのすゝめ

中国には「衆生必死、死必帰土」、つまりすべての生命には必ず死があり、死後は土に帰るという言い方があり、旦那はできれば義父のお墓を手配したかったようです。

でも義両親はかなり前から自分たちが他界してもお墓には入らず、海洋散骨することを決めていたため、義母の意志を尊重することにしました。

先代がこうして固い意志を表示してくれると、後代はとても助かります。

病院ではいろいろな節目で家族のサインが求められたのですが、旦那は義父の意志も聞けないまま、自分たちが義父の運命を決めてしまっているようで辛いとずっと言っていました。

今思うのは、夫婦で万が一の事態の時にどうしたいか、どうして欲しいかを明確に示しておくのはとても大事だなということです。新婚の若い夫婦でもです。

例えば私なら、不必要な治療や投薬は極力して欲しくないとの思いがあります。

具体的な意志をノートに残しておけば、もし大事な判断を旦那や子どもたちに委ねたとしても、彼らの心の苦しみが幾ばくか軽減されるのではないかと思うのです。

 

またお金や保険などについても、どう対処すればいいかを明確に示しておけば、残された人が困らずに済みます。

実際、我が家で以前義父の脳出血で緊急手術が必要になった時、お金の準備が大変でした。それまで我が家の家計は全て義父が握っていて、義母は通帳やカードがどこにあるか全く知らなかったのです。

回復して帰宅した後、通帳は見つかったもののパスワードが思い出せず、事情を説明してパスワードをリセットし、病後は全ての口座を義母が管理するようになりました。

万が一はいつやってくるかわかりません。いざという時の備えはやっておくに越したことはないと思います。

 

特に我が家のような国際結婚夫婦の場合、まだ日本に残っている私の金融資産をどうするかなど、ウチの旦那は日本で生活したことがない人なので、きちんと説明をしておく必要があると思っています。

今回の義父の件を通じて、ますます終活の必要性を感じました。私はまだ40代ですが、年齢に関係なく思いついた時がタイミング。日本のサイトで書き込み式のエンディングノートを見つけたので、今度の一時帰国で買って帰ってこようと思っています。

 

最後に

義父の人生は漢字一文字で表すと「苦」だったと、多くの友人が口を揃えます。

子どもの頃には文革の煽りで父親と共に農村に下放され苦しい日々を送っていましたし、大人になってからは体調の良くないことが多く、常に病院のお世話になっていたと言います。

私が嫁いでからも、程なくして脳出血に倒れ、生きるか死ぬかの瀬戸際まで行きました。ただ、その後の10年は海外旅行にも行ったし、人生の中で楽しい時期を過ごせていたのではないかと思います。

私と義父は普段あまり会話らしい会話はありませんでしたが、子どもたちの幼稚園や学校の送り迎えを始め、いつも孫たちに温かく接してくれていました。

 

お義父さん、私は子どもたちに亡くなってもおじいちゃんは天から見てくれていると伝えてあるので、これからも温かく見守ってくださいね。

塩漬けや干し物など塩分の強いものが好きでしたよね。私たちはいつも食べるのを控えるように言ってましたが、天に行ったら何食べても結構ですから。どうか楽しく、幸せな天上生活を送ってくださいね。

 

この1ヶ月間、会社の上司や同僚の理解があったおかげで、たくさん悔いはあるけれど、家庭優先で義父を送ることができました。

本当に感謝しています。ありがとうございました。

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