「すみません、これちょっと訳してもらえますか?」
仕事で頼まれれば、通訳報酬を頂けるのに、
〇〇ちゃんのママの立場だと無償奉仕になる。
どうしてコストと時間をかけて身につけた能力をボランティアで提供しなければならないのか。
私の中ではかなり前からモヤモヤしている問題である。
友達同士、仲間同士なら、お互い様な部分があるから、頼まれればやる。
(本当の仲間はそんなこと気軽にお願いしてこないけどね)
気分が悪いのは、知っている程度の人たちに奉仕しなきゃいけない時だ。
例えば、学校で先生から頼まれるとか、大勢のメンバーがいるグルチャで聞かれるとか。
そう言えばさくらさん中国語ペラペラだよね(日本人だよね)、よろしく、みたいな。
先生にはお世話になっているから断ることはしないけど、通訳サービスの享受者が先生以外の場合はなんで私が?と思ってしまう。
しかもそういう時に限って、享受者とはただ知っているだけの間柄なので、わざわざお礼を言ってくる人もいなくて、余計に気分が悪い。
どうして語学はこうも軽く見られてしまうのだろう?
知恵袋などでも、〇〇は英語でどう言いますか?系の質問がすごくたくさんある。
気持ちはわかる。
私だって、昔困っていることを見識を拝借したくて知恵袋で質問したことがあるから。
でもよく考えたら、答えてくれた人はそれなりの勉強と経験をした上での見識を持って答えてくれているわけで、せめて投げ銭形式か何かで報酬を与えるのがスジだと思う。
私たちはいつからタダで手に入れることに麻痺してしまったのだろうか。

ツイッターでこれを読んだ時にすごく心に響いた。
本当にそのとおりだ。
これを企業もやるからタチが悪い。
だからサービス残業なんていう特異な状況が生まれる。
話を戻して「語学力」。
母国語ですら長い時間をかけてマスターしていくのに、
それが外国語となれば更に努力が必要である。
私は長年の勉強と努力でこれをマスターし、生活の糧とするに至った。
なのに私の努力が、努力してない人に、無償で提供されてしまう。
どうしてだ?何がそうさせてしまうのか。
でも、これを読んでちょっと救われた。

そういう思いをしている人は私だけではないのだ。
ところで、これをアイシングクッキーが作れる人とか自己実現系ワークショップの講師などに当てはめてみたらどうなるか。
アイシングクッキーを無料で作ってもらえると思い込んでる人はさすがにいないのではないか。
ワークショップだって、無料で講座を開いてもらえるものだと思っている人はいないはずだ。
でもちょっと訳してくれる?は存在してしまう。
そこにモノがなくて、価値が見えないからなのか。
最後に質問です。
あなたが労力と時間とコストをかけて身につけた能力を、無償で提供して欲しいと言われたらどうしますか?